| 放課後の職員室。残っている教師は少ない。運動部の顧問は部活に顔を出し、そうでない者は既に帰宅している。放課となってから一時間近く経過していた。 静まり返った職員室の中、空いている教師の席に座り、ノートと教科書を広げている教師と生徒がいる。英語を担当している森藤とそれについて質問している水琴であった。 「…となって、こう訳せるの。わかった?」 「はい。わかりました。」 「これで全部?」 「はい、ありがとうございました。」 そう言って、水琴は教科書とノートを閉じる。森藤も、それが質問の終了だと理解する。 「だけどあなたも真面目ね。転校してくる前の単元の訳を全部聞きにくるなんて。」 「あっちの学校でもこの辺はやってたんですけど、一通りみんなと合わせておいた方がいいかなぁと思って…。」 「あらそう。でもあなたは覚えも早いからすぐ追いつけるわよ。あの子も見習って欲しいもんだわ…。」 「?」 森藤は、ここにはいない誰かのことに対する愚痴を漏らす。何の話だか理解できない水琴は不思議そうな顔をする。 「あ、気にしないで。こっちの話だから。」 「そうですか?」 「ええ、それはそうと、あんまり遅くならないうちに帰りなさい。女の子の一人歩きはよくないから。」 「はーい。それじゃあ先生さようならぁ。」 「はい、気をつけて帰ってね。」 水琴は席を立ち、教科書とノートを鞄の中に入れる。鞄を背負い、部屋の出入り口に向かい、「失礼しました」と言って出ていった。 廊下の静けさは、職員室のそれ以上であった。校舎の中から生徒の声が聞こえることはなく、外で運動している生徒達の掛け声だけがささやかに響いてくるだけである。 廊下にある窓からは職員達の駐車場が見える。部活の片付けかなにかなのか、教師と思われる若者が車の中に荷物を積んでいるようだ。中に水琴と同じくらいの年頃の少女がうつ伏せになっているのも見える。もう夕暮れ時であることがわかる。 その様子をぼんやり眺めながら歩いていると、不意に声をかけられる。 「お、転校生が居残りか?」 水琴が振り向くと、そこには敦がいた。 「あ、佐藤先生。」 「どうした、こんな時間まで。」 「いえ、英語なんですけど、来る前にやってたことを確認しにきたんですよ。」 「なるほど。さすがだね。」 「そんなぁ。先生は何かあったんですか?」 「ん?今日の見回り当番俺なんだよ。」 そう言って敦は手に持っている鍵の束をちらつかせる。 「そうだったんですか。」 「まあ、俺が見た後でも最後に残った先生が見るんだけどね。」 「へえ、宿直の人とかっていないんですね。」 「こんな田舎学校じゃね。それより、もう帰るんだろ?」 「はい。帰ります。」 「寄り道しないでまっすぐ帰るんだぞ。田舎の夜道も怖いからなぁ。」 敦が少し脅かすように言う。水琴は少し苦笑いを浮かべる。 「もう、からかわないでくださいよぉ。」 「まあ気にするな。」 「それじゃあ私、帰りますね。」 「おう、気をつけてな。」 水琴が歩き出し、敦は職員室に入る。先程の荷積みはしていた教師達はもういなかった。 正面玄関で靴を履き替え外に出る。夕日を浴びながらスポーツに励む生徒達を水琴は一望する。すぐ近くでは野球。遠く校庭の隅ではテニスにをしてるのが見える。それぞれが熱中する様を、水琴は目を輝かせて見ていた。 「うちの学校よりずっと少ないけど、みんながんばってるなぁ。私スポーツ得意じゃないからできないけど、なんかいいよねぇ。」 そんな事をつぶやきながら水琴は正門を通り過ぎる。校庭に沿ってしばらく歩くが、それから先は田畑に挟まれた殺風景な舗装道路が続いているだけである。 水琴の家は、学校から近からず遠からずの距離にある。歩いてはしばらくかかるが、自転車通学が適用されるほどではない。水琴はこの田舎道をゆっくりと歩いていた。 田舎の夕暮れって、こんな感じだったんだぁ。 そんなことを考えながら一人の帰り道を楽しんでいた。 しばらく歩くと、大通りの開けた場所に繋がる道路に差し掛かる。脇に土手や茂みが多く見られる、見通しがいいとは言えない道路である。 道路自体は狭くはないが、この夕暮れ時である。脇にある茂みがその道路の視界を悪くしていた。 ―そう、もぞもぞと動く茂みを、間近でなければ確認できないほどに。 水琴は足を止める。ガサガサと動く茂みの中から、荒い息遣いと足音が聞こえてくる。その雰囲気がただならぬものである事に気付いた水琴は、足音が近づくにつれ、少しずつ後退りする。 ハァハァと荒い息遣いがはっきり聞こえてくる。足音も大きくなる。 人である事はわかる。茂みに隠れていない丸まった背中が人のそれである事を裏付けている。 水琴の見たそれはやはり人だった。茂みから出てくるなりむくりと背中を起こす。その正体は決してまともではなかった。 だらしなく伸びきった髪に垂れ下がるような目つき、ゆがんだ口元。 不健康に肥えた体つきで、萌葱色の汚れたコートの下は薄汚れた肌着とトランクスという、変質者と呼ぶにふさわしい風体をしている。 背丈は百七十センチ程度と平均的で、年齢的には中年と呼ぶには若干若い程度であることが伺えるが、大人としての雰囲気はまるで感じられなかった。 「ひっ!」 水琴が声にならない声を上げる。これまでにないくらい常軌を逸した存在との遭遇に、体全体が拒絶しているのだ。 「へへへ…。かわいいい女の子だなぁ。久しぶりだなぁ。」 嫌らしい目つきで嫌らしい笑いを浮かべる変質者。水琴の嫌悪感が一層増す。 「なに、この人…。」 「ねえ、お兄さんとおうちで一緒に遊ばなぁい?」 「いや…!」 変質者がゆっくりと近づいてくる。水琴は足早に後退するが、バランスを崩して後ろに倒れてしまう。 「きゃっ。」 水琴は尻餅をついてしまい、起き上がる事を忘れてそのまま手足を使って下がる。 「あぁ、転んじゃったぁ。かわいそうに、痛かったろう?今お兄さんが介抱してあげるよ…。」 「こ、来ないで…!」 のっしのっしと変質者が近づいてくる。水琴は必死に逃げようとするが倒れたまま後退する事もできずにすぐに追いつかれる。 「さ、お兄さんに脚を見せてごらん…。」 そう言って、変質者は水琴の脚に両手を伸ばす。 「いやああぁぁっ!」 水琴は無意識のうちに行動していた。変質者の両手を跳ね除けるように足を振り払い、そのまま両足を地面に叩きつけ、さらにその勢いをつけて起き上がる。 地に足が付き、上体を起こすその状態から一気に走り出す。短距離走でよくやるクラウチングスタートのようであった。 あまりに突然の出来事に、変質者の方は一瞬あっけに取られる。 「あれぇ?いきなり走ってっちゃった。もう、恥かしがりやなんだからぁ。」 変質者の表情は一変し、すぐさま嫌らしいそれに変わる。 「よぉーし、かわいい女の子と追いかけっこだぁ。待て待てぇー。」 水琴は変質者の声を耳に入れないようにと無我夢中で走る。変質者の方も、体格に似合わないような速さで追いかけてくる。水琴はそれを見るのも嫌だと言わんばかりにひたすら前を向いて走る。 「そんなに走ると危ないよぉー。お兄ちゃんと一緒におうちに行こうよぉ。」 これだけの大声を変質者が上げて走っているにも関わらず、誰かに見つかるという事は無かった。 そう、辺りは田畑が一面に広がるのみ。見かける人間など一人たりともいなかった。 水琴はそんな状況を考える余裕もなく、無意識のうちに学校の方へと走っていった…。 |