藤崎流古武術伝
薬物猟奇
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| 催涙ガスを受けても瞬き一つしない雄一郎に、冴木もまた固まるばかりだった。 「まさか、こんな玩具で俺をどうにかできるとでも思ってたのか?」 冴木は差し向けていたスプレーを下げ、思い出したように呟く。 「そうか、君は特別だったな……。」 「何言ってんだ?」 冴木は右手にある催涙スプレーをコートのポケットにしまう。振り返って教卓に向かい、開けっ放しだったアタッシュケースに先程の注射器をしまい込み、別な注射器を取り出してそれを閉じる。 「どうせ君の事だ。クロロホルムを口に宛がったって効きはしないんだろうな。」 「さあね。そんな事まずさせねえしな。」 「となると、後は直接注入か…。」 冴木は再び雄一郎の方に振り返る。その両手はコートの中に突っ込まれる。 「いくら君でも、直接麻酔を打たれれば眠るだろう?かと言って大人しく注射されるヤツもいない。」 「そうだな。あんたに付き合おうってヤツなんかいねえだろうよ。」 「だったら、少しの隙をついて無理矢理ぶち込むしかない。」 「あっそ。やれるもんならやってみりゃいいさ。」 「そうさせてもらうよ…。」 冴木は一歩一歩雄一郎に近付く。雄一郎は冴木の方を見ながらその場から動かない。 「ところで、君は絵画に使う道具を知ってるかい?」 「は?俺が知るわけねえだろ?」 「そうか…。それなら一つ教えてやるよっ!」 ――ヒュン! 「…!」 刃物が空を切る音。冴木は一気に雄一郎との距離を詰め、突如かざした右腕が斜め下に振り払われる。 雄一郎は咄嗟に後ろに下がり、それをかわす。冴木は再び踏み込み、今度は右上から右手を振り下ろす。雄一郎はそれを後ろに飛び退く事でかわす。 部屋の壁に背を付いた雄一郎。振り下ろされた冴木の手を見てみると、そこにはいびつな形をした刃物が握られている。 「へえ、よくかわしたねぇ。」 「なんだその変なナイフは?」 「ペインティングナイフ。油彩の着色に使う、ごく一般的な道具さ。」 「油彩?」 「君が知ってるはずもないか…。いろんな事ができる画法だと思うがいいさ。」 「ああそうかい。」 「そうするとだ、当然ながら使う道具もいろいろできるわけさ。特に、このナイフは最高さ。」 そう言って冴木は、月明かりに反射するステンレス製のペインティングナイフをちらつかせる。 「絵の具を塗ったくるのはもちろんの事、それを刻んで線を作り出す事もできる。その線を織り成す事でも図を表現する事もできるのさ。」 「要するに、その切れる筆で俺を刻もうとしたわけだ。」 「ご名答。これは本物のような鋭い殺傷力はないが、人を傷つける分には十分な切れ味だ。それに、場所によっては出血多量ということもある。どちらにせよ、君には死んでもらうという事さ。」 冴木はペインティングナイフを脇に構えながら雄一郎ににじり寄る。 「そんな道具なんてどうでもいい。来るならさっさと来いよ。」 「言われなくてもそうするさっ!」 冴木は右手を振り上げて雄一郎に襲い掛かる。振り下ろされた右手を雄一郎は左にかわし、右のフックを冴木の顔面に叩き込む。 「ぐっ!」 冴木は仰け反りながら後退していく。ふらふらとよろけながらも体勢を整え、上体を前にもってくる。 顔面を左手で一摩りして雄一郎を睨みつける。 「ふぅ…。思っていたよりもいい動きするじゃないか。」 「伊達に犬と毎日格闘してねえからな。いきなり襲われるのは慣れてるぜ。」 「全く、君も変わった趣味をしてるもんだ…。」 「あんたほどじゃないけどな。」 冴木は再び両手をコートのポケットにしまい込む。腰を少し落とし、ポケットの中で何かを握る。 「それなら、もう一つ道具を紹介しようか…。」 「俺は美術に興味はねえぞ。」 「まあそう言わずに…受け取れっ!」 ――シュッ! ポケットから出た冴木の手から鋭い何かが飛んでくる。 「!」 雄一郎は咄嗟に上体を左後ろに反らしてそれをかわす。 ――シュッ!シュッ! 立て続けにその鋭い何かは飛んでくる。今度は横に飛び退いてかわす。 一回、二回と跳んでかわすと、ベランダ側に背を向けて冴木と対峙する形となる。お互いの距離は先程より離れて三メートルほどになった。 「今度はなんだってんだ?」 雄一郎は、先程の何かが飛んできた右前方を見てみる。壁際の床には、先程のペインティングナイフとは違った真っ直ぐで綺麗な装飾のあるナイフ状の刃物が落ちていた。 「なあに、ただのペーパーナイフだよ。外国製のね。」 「結局はまた刃物かよ。」 「これもまた殺傷力に欠ける道具なんだがね。傷つけようと思えばつけられるし、軽いので非常に扱いやすい。今の君みたいに警戒心を煽るには打って付けの道具さ。」 「チャチくせえ小道具ばっかり使いやがって…。」 冴木は再び両手をポケットに入れる。ポケットの中に入っているいくつもの刃物をジャラジャラと音を立ててこねくり回す。 「これで僕は遠近両用で君に対応できる。君に逃げ道はないよ。」 「ジジイのメガネみてえなこと言いやがって…。」 「メガネだろうとなんだろうと、いろんな状況に対応できるのは大人にとって必要な事なんだよ。」 互いに軽口を叩きながら、一歩も動かずに対峙している。 両者とも、相手の隙をうかがっているのであった。 「う、うーん…。」 この場に聞き慣れない声が聞こえてくる。 息を殺して雄一郎達を見ていた水琴はその声のした方へ視線を移す。 机の上で横たわっていた夏奈子がゆっくりと目を開け始めていた。 「夏奈子ちゃん!」 水琴の声と共に、雄一郎と冴木も視線をそちらに移す。 寝ぼけ眼のまま、夏奈子はむくりと上体を起こして周囲を見渡す。 「ここは…美術室?水琴ちゃんに冴木先生。…藤崎くん?なんで?」 夏奈子は現在の状況が掴めないでいる。最初に声をかけたのは水琴だった。 「夏奈子ちゃん、大丈夫?」 「水琴ちゃん。多分大丈夫。あれ、私、昼前に保健室で寝てたんじゃ…。」 「その後、夏奈子ちゃんは連れて行かれたんだよ。」 「え?連れられた?」 夏奈子は言葉の意味がわからず、昼間の記憶をたどる。 「保健室に送ってもらった後、わたしはそのまま眠くなって…。そのまま寝ようとしたら、保健室に冴木先生が入ってきて、先生は出張でいないはずなのにと思って、それで…。」 「やっぱり、冴木先生は来てたんだね…。」 夏奈子のふとした言葉から、決定的な目撃情報が得られる。 その意味を理解した水琴は冴木の方に目をやる。 その冴木は、乾いた笑顔を作っていた。 「何を言ってるんだい?僕は今日出張に行ってたんだよ。君の前に現れるはずがないじゃないか。人違いかなんかじゃないのかい?」 「そう…ですよねぇ?」 諭すように夏奈子に話し掛ける冴木。冴木の本性に気付いていない夏奈子はその言葉を鵜呑みにする。 「先生…。この期に及んでまだごまかす気ですか?」 「ごまかす?何を言ってるんだい?僕はただ昼間あった事を話しているだけだよ。そうだろう雛森君?」 「は、はい。そうですね…。」 意味もわからぬままうなずく夏奈子。ふと、現在の状況を思い返すと、思い出したように口を開いた。 「それはそうと、もうこんなに遅くなってるじゃないですか。」 「そうだね。月の光がまばゆい、いい夜だね。」 「大変!家にも玲ちゃんにも全然連絡してないし、早く帰らないと…。」 夏奈子は慌てて机から足を出してさっと下りる。 「えっと、鞄は…。」 周囲を見回し、鞄がない事を確かめると、そのまま部屋の出口へと向かおうとする。 「大丈夫だよ雛森君。」 「え?」 冴木の声に夏奈子は踏み止まる。 「先生達には僕が連絡しておいたよ。後は、僕が送っていくから心配ないよ。」 「え、でも、玲ちゃんには連絡…っ!」 冴木の方に振り返った夏奈子は表情を凍りつかせる。 歪んだ笑顔、まとわりつくような視線が夏奈子を恐怖で凍りつかせた。 「こんな夜だ…。外には変質者がいるかもしれない。」 冴木は夏奈子に一歩近付く。 「女性の一人歩きは危険だよ。僕が一緒についていてあげるよ…。」 また一歩。夏奈子は廊下側の窓へと後退りする。 「もちろん後ろの二人も一緒だよ。ちゃんと面倒見ようじゃないか…。」 じりじりと二人の距離が縮まる。夏奈子は窓に背中をつけて腰を落としてしまう。 「何も心配する事はないんだよ…。君は深く眠りに就くだけでいいんだからね…!」 冴木と夏奈子の間には一メートルの距離もない。不規則な呼吸をして、瞳に涙を溜めたまま、夏奈子はある事を思い出した。 「…学校にいる時の見られている感じ…帰り道でのつけられてる気配…部屋の窓を遠くから見てる変な車…そして、今のこの気持ち悪い感じ…。全部…全部一緒だ…!」 「そうか…気付いていたんだねぇ…。頑張れば伝わるもんなんだねぇ…。僕のこの熱い思いがさぁ!」 冴木の口元が一層つり上がる。夏奈子はもはや何も口にする事はできなくなっていた。 「それじゃあ、冴木先生はずっと夏奈子ちゃんを付け回していたっていう事?」 「妙に誰かと帰りたがったり、帰り道でキョロキョロしてたのはこいつのせいだったんだな。」 「そして、美術の時間に元気がなかったのは、そのストレスのせい…。」 水琴や雄一郎も、夏奈子が取った今までの不自然な行動について思い出す。 そして、改めて冴木のその異常性に驚愕するのであった。 「先生…狂ってる…。」 「まさにストーカーだな。ホント、うすらデブ以上の変質者だな…。」 雄一郎の言葉を聞いて、冴木はゆっくりと振り返った。 「ストーカーに変質者か…言いたい放題だな…。」 冴木のねっとりとした視線が、今度は雄一郎に注がれる……。 |